わ・め・ぞ 迷走記 (その1)
そもそも「わめぞ」とは何ぞや?
詳しくはこちらに載っておりますが、もともとは、早稲田 目白 雑司ヶ谷の本に関係する仕事をしている人たちの情報交換(飲み会)の場の名称。 で、「谷根千」のパクリで、そのおのおの街の名の頭文字をとった「わめぞ」の集まりは、その後矢継ぎ早に様々なイベントを仕掛け、その地域に住む人や、その他の人たちを巻き込んで、新しい地域のつながりを構築しはじめ、「わめぞ」という言葉が、集団の名から一つのエリアとしての通称となりつつあるという代物。
今、なかなか躍動感のある場所の一つなのです。
ならば、街歩き好きの私としては、地勢的にどうなのよと、実際に歩いてみることにした訳で。
早稲田駅へ。
いや~東京の暖かいことといったら!
寒さのためすべてが枯れ果てて、茶色と黒と白の色彩しか無い松本から来ると、この山茶花の花と葉の鮮やかな色彩が本当に目に沁みます。
さて、今回の街歩きの起点はやはり「わめぞ」のわ、早稲田ということで、
都の西北のこの学校正門。
先ず向かうは、
「穴八幡」様へ。
「穴八幡」様は社伝によると、康平五年(1062年)に源義家が奥州征伐からの凱旋の折、ここに武具を納め、京都の岩清水八幡宮を分社したのが始まりとされていおります。
その後、寛永十三年(1636年)に、幕府御手先弓組頭の松平某の手により、弓の的場が造成され、この八幡宮を的場の守護神として奉り、小祠が建立されて、「高田八幡」と称されるようにました。
さらにその後、寛永十八年(1641年)に当時の別当、放生寺の草庵を増築しようと、この穴八幡の斜面を切り開いたところ、横穴が出現。その中に阿弥陀如来像がお立ちになっており、これを聞いた近在のものが多く参詣に訪れ、やがてこの横穴にちなんで「穴八幡」と称されるようになったとのことです。
その後、寛永十三年(1636年)に、幕府御手先弓組頭の松平某の手により、弓の的場が造成され、この八幡宮を的場の守護神として奉り、小祠が建立されて、「高田八幡」と称されるようにました。
さらにその後、寛永十八年(1641年)に当時の別当、放生寺の草庵を増築しようと、この穴八幡の斜面を切り開いたところ、横穴が出現。その中に阿弥陀如来像がお立ちになっており、これを聞いた近在のものが多く参詣に訪れ、やがてこの横穴にちなんで「穴八幡」と称されるようになったとのことです。
一陽来復のお札で有名な「穴八幡」様。さすが、正月二日。境内は初詣の方々が多くいらっしゃいました。
お参りした後は、しばらく露店をひやかしたり、
布袋さんのお腹を撫でたりして新年の華やかさを楽しみ、甘酒を一杯頂きました。
つづく。
(ははは、このシリーズ長くなります。なにせ、わずか半日で撮った画像の数だけでも300枚近く。やった~!しばらくブログネタに困らねぇぞぉ~)